言葉にするということ

興心です。普段はあまりテレビを観たりしませんが、昨日は珍しく漫才の番組(M-1)を観ました。こういった内容の番組の楽しみ方の一つとして、自分が面白いと感じたものを他人(今回でいうと審査員)が面白いと感じるのかを確認する作業にあると思いますが、さすがは審査員、それを生業にできているだけあって感情の動きといった数値化しにくいものをちゃんと点数として表現し、その妥当性を言語化して伝えていました。面白さというものを感情の変化というあやふやなものとして捉えるのではなく、科学できるもの(つまり再現性のあるもの)として考えている点に強い信念を感じます。そういったものは審査員の魅力として我々の目に映ることでしょう(感情に任せた採点もそれはそれで面白いですが…)。

話は変わりますが、演習1のクラスは基本的に高校2年生向けのクラスでたまに文系の受験生が混じったりします。さらにごく少数の高校1年生が含まれるときがあります。今年もそういった高校1年生がいてクラスを刺激的なものにしています。というのも、高校1年生で演習1に参加するというのはその段階で基本的に数IIICまでを終わらせていることになるので、とても優秀である場合がほとんどだからです。この前の整数の範囲の演習の問題を4問とも正答していたのには驚きました(他の生徒はよくて2問ほどでした)。

演習のクラスでは問題が解き終わったと生徒が主張したときには、答えがあっているかを確認します。その際、証明問題であればしっかりと見ますが、数値を出すような問題に対してはまず答えの数値が間違っていないかを確認して途中の計算などは後から見ています(部分点システムは演習クラスの演習問題にはないからです)。また、解けたと主張する生徒が続出するときは、一言「どう考えたの?」と聞いてみて確認したりします。ちゃんと考えたことが簡潔に説明できる場合は、大抵答案に問題がないように感じています。

先ほど触れた高校1年生の生徒はこの説明が上手です。試そうと思ったこと、そう考えた理由、その試行が上手くいったのかどうか、などをまとめて話してくれるため答案を見る前に大体の情報が分かります。まあ、話を聞いてみて疑問点が残れば、もちろんちゃんと確認するようにしています。

以前、なぜ説明が上手な生徒は問題が解けるのか、について考えたことがありました。考えた結果得られた結論は、「問題文から受け取れる情報量が多い」のではないかというものでした。問題を解いた方法について説明しようと思ったとき、「思いつきでそうなりました」という説明では他の問題に応用が効きません。つまり、試す方法に何かしらの論理が必要で、それを取り組む問題について毎回考えていれば自ずと問題から読み取れる情報は多くなっていくことでしょう。入試問題は大学の教員が考えたものなので、ひとが考えたものであるならば解くために何かしらのきっかけがあるはずだという考えに基づいて取り組んでも良いといえます。説明しようと頑張ることが結果的に情報を引き出す能力を育てるのではないかと現在は考えるに至っています。

また、他にもある傾向としては、思いつきでない方法による答案になっているので考え漏れが少ないことがいえます。なんにせよ、自分の考えが表現できるということが重要だなと感じる一件でした。模試などで答えはあっているのになかなか自分の答案に満点がもらえないときは、説明が足りていないこともあるので意識して練習しておくべきだと思います。その際、答案は必ず書くこと、途中で考えたことをメモすること、どうすれば答えに辿り着けたのか(きっかけや使った公式)を具体化することなどに注意を払えば演習の効果は段違いになることでしょう。数学で伸び悩んでいる生徒にはおすすめの方法です。

ということで、今回は言葉にすることという内容でした。年末も近づいてきたので、良い年越しを迎えられるよう、くれぐれも身体にはお気をつけてお過ごしください。(画像は少しも辛そうには見えない塾長です…)