新年の決意
最近、元小学校の先生だった人(それも指導的立場)と話す機会がありました。
その中で「稲荷塾はできる子だけ集めて教えているから楽でいいね」という発言がありました。
その場は「そうでもないんですけどねぇ …」などと言ってやり過ごしたのですが、不快感を伴いながらいろいろと考えさせられました。
まず、「できる子」という定義がこの方と私では随分違うと思いました。
それから、自分が経験してないことは分かりずらいということも感じました。
私も学力底辺層の教育に携わったことがないので、その苦労を理解することができません。同時にこの方に代表される多くの小学校の先生は東大・京大受験がどういうものかが分からないのです。
東大・京大を「できない子」は受けません。結果として「できる子」どうしの闘いになり、その中で2、3倍の競争率を勝ち抜かないといけないのです。簡単ではないし、「楽でいい」なんてなものでは決してありません。そういうことがまるで分かっていないと思いました。
私の両親も小学校の先生でしたし、近い親戚にも8人、小学校の先生だった人がいるので(そのうち2人は中学校の先生からの転向。その他高校の先生1人、大学の先生1人)、この「小学校の先生が何も分かっていない」という感覚は正しいはずです。
さらに私自身の経験でも、小学校の授業は超退屈でした。進度はあまりにも遅く、分かったようなことを何度も繰り返し …
だから私はいつも窓の外を眺めていました。一刻も早く授業が終了して外に飛び出すことを願って。
そしてその都度「また稲荷君は外を見てる!」と叱られたのです。
小学校の教育は機能していないと私は思います。
これを改善するとすれば方法は2つしかなと思います。
一つは生徒の特性や方向性によってクラスを分けることです。
もう一つは「これを教えないといけない」とされていることを思いっ切り削減して、小学校を午前中で終わりにすることです …
どちらも実現されないでしょうねぇ …
なぜって、みんなそれぞれ重要だと考えることが違うし、私のような考え方で改革するとすれば、それは間違っていると主張する人が必ず出て来るからです。
じゃあどうすればいいのでしょう?
教育方針は国のような大きな単位で決めるのではなく、各都道府県が決めるようにしなければなりません。
そうしたら責任ある改革案が現場から出てくるようになると思います。
今の現場は「考えても自分たちには決定権がないから何も変わらない、だから何も考えない」となっていて、国が示す改革案は今回の入試改革に代表されるがごとくのアホ案ばかりです。
「日本」はことを成すには大きすぎるのです。
しかしその決定権の移行自体が実現されないでしょうねぇ …
だから、稲荷塾はもう少し影響力を持てるようにならないといけません。
「小さな数学塾」が大きくなろうとしているわけではありません。あくまで「小さい」ままで、築き上げてきた方法論やシステム、それに考え方を広めることができる道を探したいと考えているのです。
それがオンラインサービスです。
3月になって新年度が始まれば、いよいよその方法を探し始めようと思います。
やるぞ!