塾の先生は高慢になりがちか

松谷です。

一般論として、

塾の先生は高慢になりがちだと思います。それは、ベテランだろうが、若手だろうが、大学生だろうがです。

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それは塾の先生になろうというような人の性格がねじ曲がっているから…

ではありません。

 

それはたぶん、子どもに対して、教えるという行為をとっていることで、どうにも、自分がすごいような気がしてくるからです。

昔は誰しも知らなかったことわからなかったことがあったはずです。しかし、いったんわかってしまっていったん身に着けてしまうとわからなかった自分が思い出せなかったり、その時の気持ちが理解しにくくなったりします。ちょうどそれは自転車に一回乗れてしまった人が、自転車に乗れない人の気持ちや自転車の乗り方を思い出せないようにです。

そうすると、たかだか、少し先に生きて、その分、知識や経験を持っていることだけで、先生は、自分が余裕でできることをまだできない生徒やまだ知らない生徒などに対して、優位な状況に立ちます。

 

そして、塾は主に閉鎖的な環境であるがために、何やらその立場や気持ちがエスカレートしていきがちなのです。

 

社会人をしていたら、顧客に対してそんな態度をとっていたら、論外なわけで、特殊な環境だなと思います。

 

しかし、そんなのはいいわけないと思っている僕ですら、今のは高慢な態度であったな、、と反省するときが、ちょこちょこ出てきてしまうくらい独特な状況です。ですから、自分を自分で律していかねばならないと感じます。

 

ただ、じゃー塾の先生は先に生まれただけであり、まったく偉くないとしたときに、生徒が先生に対して尊大な態度をとってよいかというとそうではないとは思います。

 

やはり、ある意味、尊敬して接するべきだと思います。(生意気すぎる生徒や制御がきかなすぎる生徒については何らかの措置を講じる権利はあると思います。)

 

でも、まったく塾の先生は偉くないとして、何を尊敬できるのだ?!と思うかもしれません。

 

僕は、塾の先生が、生徒に興味をもち、その生徒がわからないこと知らないことはなんなんだろうと考え、理解してらおう伝えようと努める場合には、その点は尊敬しうる点だと考えています。

 

先ほども言いましたように、長く生きているものが知識や経験を多く持っているのは当然ですが、それを持ってない人に、伝えよう、理解してもらおうとする行為自体は、かなり特殊だからです。

 

なぜなら、分かってしまっている人間にとって、分かっていない人に教えるのって、ただ、自分の経験を焼き直しているだけでありなんてつまらないことだと思う人も大勢いるからです。

自転車乗れる人の目の前に、毎日自転車乗れない違う人がやってきて、毎日自転車の乗り方を教えて下さい。と言ってきたと思ってください。なかなか面倒くさくなりそうですよね(笑)

 

そういう行為をモチベーション高くやり続けるということは、なかなかできることではないなと感じるんですね。結局そうすると教える内容そのものが好きであるとか、同じ教えるにしても相手の反応の微妙な違いを楽しめるとか、もっとよい伝え方はないかと改善を目指し続けられるとか、そういったことが必要になるからですね。

 

そういう意味では、僕は、今まで教わってきた学校の先生で尊敬できる人は小学校3年生のときの担任の先生を除いてひとりもいませんでした。

一方で、塾の先生には尊敬できる人がいっぱいいました。

小学校のときの算数塾の先生も、中学になってから個人塾で英語を教わっていた大学生の先生も、もちろん稲荷先生もです。

 

まあ、生徒にとって、この先生は!!という先生になれるといいなあと思うのですね。

 

生徒は自分のために伝えようとしてくれてる先生に敬意をもって、先生は世界の将来を担う生徒さんに対して敬意をもって、気持ちよく教え教えられる関係が理想ですね。

 

ふと、思ったことを書いたので、あんまりまとまりもない記事になってしまいました。