なんでアメリカに塾がなくて日本にあるのか
松谷です。
なんでアメリカに塾がなくて日本にあるのか
まぁ別に僕も専門的に研究をしているわけではないですが、アメリカに塾がなくて、日本に塾がある理由は入試の形態の違いのせいだと思います。
難易度高めの大学で考えると、簡単にいうと
アメリカの入試:学校の成績と簡単な共通入試とエッセイ、課外活動をバランスよくみる
日本の入試:難しい個別筆記試験がメインで簡単な共通入試も一部見る
このような違いが塾の有無につながっていると感じます。
つまり、
日本の難関大学の入試は個別筆記試験が高度な技能試験記述試験となっているため、通常はかなり賢い子でも特別な対策をとっていかないとなかなか合格に達しないという現状があるということです。
ということで、いろんなノウハウや分析や高度な内容も扱っている塾と相性がよく、全体に共通の教育をする学校では足りない部分を補う存在として塾が存在しています。そして、難関大学は基本的に学校の成績は無視しているところが多いです。
一方で、アメリカはそんなに難しい試験はありません。筆記系の試験はSATなどの共通試験だけです。それはセンター試験みたいなもんで、たいていの難関大学を受ける生徒はほぼ満点のような形で提出してきます。つまりそれでは差がつかないのです。そこで、学校の成績や課外活動やエッセイや面接などが重視されて合否が判定されていきます。(ちなみにハーバードとかに出す人は学校の成績も大体オールAみたいですが。)これらを公平に判定するのはなかなか難しいとは思いますが、一応面接官が鍛えられているのかもしれませんし、もしくは多少偏った判断であったとしてもうちが欲しい人材ということでよしとしているんだと思います。就職のときの企業面接と一緒ですね。全くの公平は不可能ですからね。(というか公平である必要さえないという考えですかね。ハーバードとかがお金持ちを入学させるのも、寄付金とかだけでなく、賢い子をお金持ちと大学で出会わせてスポンサーとしてイノベーションを起こすという意味が強いでしょうからね。)
つまり、もし、日本の入試制度が、学力試験は共通試験だけでという流れにもしなるとしたら塾ってどうなるんだろうとは思います。。。はっきりいって、センター試験みたいなものだけであれば、それに照準をあてて勉強すれば特別な対策を施さなくてもある程度の能力があれば9割くらいには達します。これを1点刻みとかではなく段階での評価とかにしたとしたらまぁ受験生のなかでほぼ差はつきません。ということは学力以外のほかの要素が大事になってくるわけで、そうすると塾の存在意義がなくなってしまうのかもしれませんね。(ついていけない人をフォローするみたいなところはあるのもしれません。)
まぁ、僕はやはり生徒さんとか保護者さんとかに本物の価値を提供したいなと思うんですね。
今、稲荷塾は割と普遍的な価値を提供しているとは思うのですが、それでも自分の今やっていることが、日本の流れのなかでどうなっていく可能性があるのかなというを少し考えてみました。
まぁ、流れが変わればそれに順応するようにサービスも変えていくというのは、企業勤めをしていたときに慣れてはいますが、それでも気になりますので、全体の流れを見守っています。
この前の会議で、国立大学は個別試験を堅持したい方向のようでしたが。