なぜ情報の劣化が起こるか?

先日、「情報の劣化が激しい子がいる」と書きました。

こういう子は、分かっていなくても丸がもらえれば次に進もうとします。

分かれば点数が取れるようになりますが、点数を取ることが勉強ではありません。

そのすり替えが起こると、自分が分かっているかどうかのチェックが甘くなり、今やっている作業の意味を考えることが少なくなります。

そうすると、とんでもない答えが出ていてもそれがおかしいと気付かなかったり、ひどい場合は、移項で符号のミスをしたり、次の行に進んだら係数が変わっていたり、そんなことが頻発すれば永遠に正解には到達しないだろうと思われるような取り組みをしているのです。

そういう子は雑な作業をしているだけで、思考は停止しています。

 

こういう子が変わるのは非常に稀です。そういう意味で、それが能力だとも言えます。

 

しかし、

 

そのことをまず自覚し、一つ一つを理解して進もうと姿勢を変えるならば飛躍の可能性があります。

丸がもらえるかどうか、つまり人に評価してもらえるかどうかは重要ではなく、自分が納得して進んでいるかどうかが重要です。

この転換が起こると、理解を積み上げること自体が楽しくなります。

たとえ進むのに時間がかかったとしても、そのように進んで行くべきです。

 

そうすると、家庭の在り方も重要です。

こういう姿勢は家庭内での価値観の現れでもあるからです。

子どもに結果を求め過ぎていたり、子どもが結果を出すために努力する過程自体を親が評価しないでいると、知らず知らずのうちに子どもの価値観がゆがんで来ます。

それが子どもの姿勢に表れます。

もっと端的に言えば、子どもの表情に表れます。

 

変われるかどうか、中学生以降になれば、それは本人の自覚による部分が大きいです。

しかし、子どもが中学生以前であれば、そのウェートはぐっと親側に偏るのではないかと思います。

 

じゃあ、

 

親の姿勢は変わり得るか?

 

それは自覚によるんじゃないでしょうか。