学力が高いだけの人はいらない。学力が低い人もいらない。
松谷です。
いま、教育改革、入試改革が叫ばれています。というかそのまっただ中なわけですね。
生きる力だ、アクティブラーニングだ、協働する力だ、創造力だ、なんちゃらなんちゃらと言われています。
つまり、今までの教育の否定ですよね。つまり、今までの教育で育った僕たち大人を否定しているということかもしれませんね笑
さて、まぁ、でも僕はシンプルにこうとらえています。
学問をインプットして紙面上で再現するような力を学力と定義するならば、
「学力が高いだけの人はいらない」
ということを主張しているんだと思います。
一方で、上のメッセージには、多分、暗に、
「学力の低い人もいらない」
というメッセージも込められている気がします。
「学力が高いだけの人はいらない。」
「学力の低い人もいらない」
うーん。何やら、ハードルが上がっていますね。
機械的に教え込まれたものを再現するだけでは意味ないよということですね。
そもそもの学びとる姿勢だったり、論理的に考える力だったり、アウトプットする力だったり、人と関係性をつくる力だったり、そこから派生して新しい何かを創造する力が求められている気がします。
稲荷塾も昔に比べて進化したような気がします。
昔は稲荷先生の言葉をとりあえずノートに写すという形でした。授業は、もちろんすごく楽しい授業でしたが、ノートを写して一部その場で問題を解いて、家でそれを復習するということによってのみ成り立っていました。
でも、今は、独習数学を基に自分でまず内容を飲み込もうとすることが最初にあります。
これは、学ぶ姿勢に対しての改革です。学ぶ姿勢を自主的なものに変革しようとしているわけですね。これは、大学以降、社会人になってもすごく生きていく力だと思います。
もちろん全部、稲荷先生が説明するのを聞いて理解してノートに写すというのも1つの成功したやり方ですが、自主的なやり方で飲み込んでいき、その上で、質問したりポイントの説明を受けたりしたとき、自分と他者(講師など)との考え方の違いを知り理解を深めていけるというのは大事な力なわけです。
もちろん全然わからなければ、事前に質問したりすることも可能です。
あとは、授業で、再確認します。その中で、それぞれが不明点などを解消します。
そのあと、テストによるアウトプットを通して、それでも甘い点があったのだということを各自が自認して、修正していきます。
その後は各自演習をして、自分の力を伸ばしていき、分からないところなどは各自が質問して解決していきます。
この中では、以前より講師やチューターなどとコミュニケーションしていく力が上がる気がします。単純にテストでのアウトプット力だけでなく、ぼくたちに説明したりするアウトプット力も上がっていきます。
さらに、テストで分からなかったところを生徒同士で多少教えあうこともOKとしています。(邪魔をしすぎない程度ですが。あと、友達と来ていない新しい生徒さんはなかなかそんな機会はないかもですが。友達誘って来てOKですよ笑!)
これにより仲間と協働する力も上がります。
創造力については、まだ、その問題を解く範囲での箱庭の中の創造力くらいしか磨かれないのかもしれません。
ただ、進度を早められることにより生じる余裕から、塾以外の場面で創造力を発揮するところが出てくるのではないでしょうか。
また、数学は、問題を、解くとき、答案を書くときに間違いなく、論理的な思考力を上げられる学問だと思います。もしかしたら、一番それがつく学問ではないでしょうか。真面目に勉強した場合の現代文と双璧かもしれません。
このような先が読めない不確かな時代になると、人間が頼る大きなものの1つは、論理だと思います。(直感も大事ですが。)
ですから、それをつけることは大事なことなんじゃないかなと思います。
一応、教育に携わるものとして、生徒にそういう力を身につける手助けができたらいいなと思っています。
教育に熱い大学同期とこれから会うのでついつい、自分の今やっていることは何なのかなと考えました。
新しい発見があれば共有していきたいと思います。