科学的

遂に科学的トレーニングを開始しました。

まず10分間アップした後、「2分間心拍数を上げて1分間下げる」を4セットして、最後にクールダウンというメニューでした。

何で「科学的」と言っているかといえば、平常時の心拍数から計算して上げたときと下げたときの心拍数が決められていたからです。

それでちょっと「科学的」かなっと思ったわけです。

でも、別に大したトレーニングではありませんでした。

一応汗だくにはなりましたが、へとへとになったわけではありませんしね。

まあ、しばらくこれで様子を見てみようと思います。トレーニングに慣れて来たら次の段階もあるようですし。

 

それから、Carmelia も日本語の勉強を頑張っているようです。メニューを見てみると結構「科学的」です。

彼女の場合、既に3つの言語をものにしているという実績があるので、何となく自信がありそうに見えます。

フィリピンの場合、たくさんの島でできているので、言語もたくさんあります。だからそれらを束ねる共通語が必要で、それがタガロクです。Carmelia だったら出身地バギュオの言葉とそのタガロク、それから英語ができるというわけです。

これでもし本当に Carmelia が日本語もできるようになったら、やっぱりそこには語学学習の普遍的ノウハウがあると見てよく、それは我々が英語を学ぶ際にも適用できるのではないかと期待しています。

そういう意味で、ちょっと注目ですねぇ。

 

ところで、「科学的」とはどういう意味でしょうか?

私の場合、「再現可能な」というニュアンスで使っています。

リンゴを落としたら落ちた。次の日に落としても落ちた。アメリカで落としても落ちた …。そうすると、リンゴが落ちるのは科学的だとなります。

Aさんについて、平常時の心拍数に対して何パーセント上げてトレーニングしたら効果があった、Bさんも同じだった、結局誰でもそのようにトレーニングすれば心肺機能が上がるとなれば「科学的」です。

そういう「科学的」ノウハウが英語学習にも数学の勉強にも存在するはずです。

 

ところが科学的に見えて科学的でないものもたくさんあります。

たとえば、「Aさんは頑張ったけど英語ができるようにならなかった、Bさんもそうだった、私の知る限り、英語ができるようになった人はいない。だから日本人が日本にいて英語を勉強する場合、決して英語ができるようにならない」などと言ったらどうでしょうか?

結構説得力がありますよね?

でも、これは「科学的」ではありません。

例外があるからです。

もし、日本にいて英語ができるようになった人が一人でもいれば、むしろそのノウハウを普遍化すべきです。

私としては、この「日本にいて」という条件に「大人になってからでも」とか「とんでもない努力をしたわけではなく」という条件を加えて、それでも成立する「科学的」道を探し出したいと考えています。

頑張るぞ!