質か量か

今日は質か量かという話をしようと思います。

特に「参考書は質か量か」について書きます。

 

稲荷塾では授業の質だとか効率にこだわっています。

使う参考書としての「稲荷の独習数学」も徹底的にそうです。

骨組みが分かりやすくするために余分の演習問題は入れていません。

しかし、これには悪い面もあります。

新しい技術を学んだならば、それを演習して初めて自分で使えるようになるので、演習用の問題集を選ばないといけません。

ところが、その演習用のテキストも1テーマ2問で簡潔にまとめられているので、それだけではどうしても演習不足になります。

それで演習プリントを準備して、それをこなすようにと奨励していますが、ちゃんとやっていない諸君も少なくないように感じています。

 

つまり、稲荷塾の弱点はがむしゃらに頑張るタイプの子が少ないということです。

そのことについて、ちょうど昨日「たくさん問題を解いたからと言って、できるようになるわけじゃない」と息子が言っていました。

類題をたくさん解くのは、それは単なる作業であって時間の無駄だというのです。

そうではなく、その本質を考察し、理解することこそが大切だというわけで、まさにその通り、と思う反面、だから簡単な問題で取りこぼして来たんじゃないのか、とも思ったのです。

やっぱり、単なる作業とも思えるような演習を積むことにも意義があり、そうしてこそ反射的にその技術を使うことができるようになるのです。

ですから演習は積めば積むほどにいいのです。

ですが、同時に、クラブ活動も何もかも犠牲にして勉強に投入しよう、なんてなスローガンは馬鹿げており、バランスを崩していると思うので、やはり、効率的な学習法を主張してしまうのです。

 

このような稲荷塾の考え方と対比的なのが鉄〇会です。

彼らは、膨大な演習をこなす中で本質が分かって行くと考えており、実績も上げています。

いいんじゃないでしょうか。

しかし、こういう考え方に合わない人も多いと思います。

たとえば、チューターの林君に「灘の子はいっぱい鉄〇に行ってるけど、どうして鉄〇にしなかったの?」と聞いたときのことです。

「鉄〇はないですよ!」

と言下に断言していました。

林君の場合、単純作業を極端に嫌うという面が強く、中1の終わりに稲荷塾に来たとき「算数が得意で灘にトップで合格したのに、中学数学は作業にしか思えず、楽しさが感じられなくなった。成績も真ん中ぐらいに落ちてしまったので稲荷塾に来た」というようなことを言っていました。

その後、彼は再び数学の楽しさを感じるようになり、数学は灘でトップ10に、そして英語は何と灘で1番になったのです。

 

それから、参考書で「稲荷の独習数学」と対比的なものとしてはチャートがあります。

チャートでは、およそ考えられるパターンを全部網羅していると言うことができます。

また、多くの学校が副教材として採用しているだけあって、その完成度は高いです。

ただし、チャートの本は分厚いです。数ⅠAだけでも「稲荷の独習数学」より分厚いので、数ⅡB、数Ⅲまで合わせると相当の量になり、全部をカバンに入れて持ち歩くことはできません。

「これじゃあ、やる気がなくなるでしょう! 」と思うのは私だけではないはずです。

それにすべての問題がベタで並べられているので、「どれが重要なのか」とか、「どういう流れなのか」といったことが分かりにくいです。

その点「稲荷の独習数学」は高校数学を一つのストーリーとしてまとめてあるので、これ一冊を通して学べば、全体が頭の中にすっぽり入るようになっています。

もし学校でチャートを買わされているのであれば、「稲荷の独習数学」の演習用として用い、全部やるのではなく、必要な部分だけやるという使い方がいいのではないかと思います。

 

それで結局、質か量かということですが、どちらも大切です。

ただし、質が先行してこそ量が活きるのであり、そこに稲荷塾の特長があると言えます。