教育改革に思う

昔、私が関学の学生だった頃、とんでもなく学力が低くて授業について来れない友人がいました。

初めはどうやってこんなやつが受かったのだろうかと疑問に思いましたが、彼らが関学高校から上がって来たことを知り、そういうことだったのかと納得しました。

その後茨木市で塾の講師になったとき、関大一校から関大に進む場合も同じような現象が起きていることを知りました。

そして稲荷塾を始めてみると同志社も似たような状況になっていることが分かり、さらに同志社大学の先生が同志社高校から上がってくる生徒を嫌っているという話も耳に入ってきました。

こうして、中高生の勉強すべき時に勉強しないのはダメなんじゃないかと次第に思うようになりました。

 

でも一方では、大学入学時の学力が高いかどうかはその後のパフォーマンスに大きな影響を与えないという話があります。アメリカのような入試制度だと、つまりAO入試で選別されるとなると、今のような受験勉強は不要になります。すると大学入学時の学力は確実に落ちることになります。だけど、それで大学教育のレベルが下がるわけじゃないと。

本当でしょうか?

私の知る限り、ポテンシャルはあっても高校生のときに勉強しなかった子が大学に入ってから急に勉強し始めるということは考えにくいです。上記の関学のときの友人も逃げ続け、4年生になって研究室に入って間もないころ「ぼっ僕はやめます!」と言って教室を出たっきり行方不明になりました。

大学入学時に学力が低いのに大学に入ってから頑張るとすれば、大学自体を改革する必要があると思います。関学でも京大でも偉い先生ほど教えるのが下手という傾向が強く、研究者だという意識はあっても教師だという意識があるのかないのか、… まあ、それで学生側も当局側も不満はないし、学生はみんな大学院に行ってから頑張るのが普通だと考えているわけですが、もしそこに集まっている学生の学力が今よりずっと低かったとすれば、しっかり教育する体制を整える必要があると思うのです。

しかし、それは稲荷塾の専門外。

稲荷塾は一体何ができるのか?

私は入試制度が変わったとしても、高校生は勉強すべきだと考えています。

今のような受験勉強が必要でなくなったら、もっと本質的な勉強をすればいいです。好奇心に駆られてどんどんと進み、深めていくような学びをすればいいと思います。

だから、独習数学の形式で大学の教養レベルの数学を学べるようにしようという計画を立てています。本気で学問をしようと思うなら、独習数学レベルの数学ができないとダメでしょう。ですが、これをとことん究めて、今の東大・京大の入試レベルに引き上げる必要がなくなったとすれば、大学の数学をやればいいと思います。

そしてそういう気概のある学生が東大や京大に集まるのであれば大学のレベルは下がらないし、むしろ上がるかも知れません。