授業スタイルの変遷

「頭のいい子には中学受験をさせるな」の原稿を読み直したことで、ここ数回過去を振り返る機会を持ちました。

さらに、その原稿の続きにエッセーが付いていて、昔はそのエッセーをみんなに配っていたことも思い出しました。

これによると当時は、今とは全然違う授業スタイルだったのです。つまり、以前は板書して説明するという普通の授業をしていたのです。それがよかった面もあります。まず、生徒との距離が近くなります。

しかし、今のスタイル、つまり説明するほとんどの部分を文書化しておいて配るというやり方のメリットの方が大きいと考えています。圧倒的に多くの情報を伝えることができるようになりましたので。

それでは、9年ほど前のエッセーの中から1つを紹介しようと思います。

 

「独り言」
最近の演習の授業でおもしろいことがあった。ある基本事項の確認のために私はA君をあてた。しかし彼は分からないと言う。
「うそっ、うそ~!」
私は泣き出しそうな声を出す。
「うちの息子な、182cmもあって上から見下ろしてくるから腹立つわ。この前も上から見て『頭薄うなってるなあ』なんて言うてくるからなあ。そやけどあいつも小さいときは、かわいかってん。あいつが外から帰ってきたときな、母親がおらへんことがあってな、『お母さんは?』って聞くから『逃げてん』と答えたら『うそっ、うそ~!』って叫びよってん」(場内爆笑)
「それからな、何か信じられんことがあったら『うそっ、うそ~!』って言うことにしてんねや」
次に私はB君をあてたところ、彼の返答は正解に近いけれども重大なミスを含んでいた。私はB君が答えたままをホワイトボードに書いて、K君をあてた。
「違うよなあ、K君、どこが違う?」
K君はなかなか答えない。そこで私は追い討ちをかける。
「全然違うやん、どうして気付かないの? 君の目はどこに付いてるの?!」
「その、一番右です」
「えぇ~君の目は一番右に付いてるの?!」
大爆笑だった。もちろん式の一番右に誤りがあると彼が主張していることは、みんな分かっていた。しかし答えたタイミングが悪過ぎたがために私の餌食になったのだ。
私は生徒を追い詰めたり、からかったり、笑わせたりするのが大好きだ。それはそうすることが楽しいからではあるが、そうすることで記憶に残る授業になると思うのだ。講義にはメリハリがあった方が良い。五感を使って感じたことは忘れにくいと言うし、それに感情の動きまで加われば理想的だ。
ちょうど今年京大に受かった吉田君と辻君が、体験記の中でこのことについてコメントしている。
吉田;… 稲荷塾でよかったところは少人数だったことだと思う。すると授業では毎回あてられる。これは答えられなくても怒られたりするようなことはないが、答えられると結構嬉しい。 …
辻;… また、月ごとに配られるエッセィや授業中に飛び出す小話やギャグのおかげで、受験勉強のストレスをあまり感じないままにこの一年を乗り切れたような気がする。 …
授業内容が一番大切であることは言うまでもないが、それをどのように伝えるかということもまた大切なのだ。
そういう意味で私自身が新鮮な気持ちでいること、つまり何かを学び続け、何かに挑戦し続けていることがとても大切だと思う。また私自身の娘や息子との関わりの中で、それぞれの保護者がどのような願いをこめて子供たちを見ているのか、その祈るような思いを感じることも必要だ。そうすると、ときにはとても「厳しい先生」にならざるを得ない。
「5.41圧倒的に頑張れ!」で受験学年では少年ジャンプを我慢するべきだという話を書いたが、これはギャグではない。本気だ。受験学年になり、成績がついて来ない、深刻な状況なのに、それでも真剣になれない子を見ていると腹が立って仕方がない。初めは軽く皮肉を言ってやる。次にエッセィに関連事項を書く。しかしそれでも気付かないようならば真正面からドンと言うしかないだろう。「お前の人生はそんなにいい加減なものなのか! 闘うべきときに闘わずに逃げ続ける気か!」最低限の真剣さを共有しなければ、楽しい授業なんてありえない。
話は転じて、子供の躾に甘すぎる親も困ったものだ。子供の言葉使い、態度を見れば、「父親が役割を果たしていない家庭だなあ … 。規範についての教育がなされていないなあ …」などと感じることがある。しかし私が父親代行でガツンと言ったとして、その子がそれを受け止められなかったら、それっきりになってしまう。言える関係、言える間合いを作らなければならないのだが、事実上それが難しいときもある。
さらに細かいことに気をとられすぎる親もわろし。たとえば学校の成績がどうのこうのと気にしすぎる家庭があるが、そんなものはそこそこで十分だと知ってほしい。
出題範囲が決まっているようなテストの点がとれても、近視眼がさらに進むぐらいのもので、それ以上の大したメリットはない。それなのにあまり本質的でないところに「完全」を要求しすぎるとどうなるだろうか。子供は萎縮し、表情は硬くなり、まわりを見る余裕すらなくなって行く。私としては何とかしてやりたいが、塾という場ではこういった子の心を開放するのが非常に難しい。
結局親の責任が大きいのだ。親が子供に与える影響はとてつもなく大きいということだ。甘すぎるのはダメで、そんなことをしていると、子供が社会に出てうまくやって行くのをじゃましていることになってしまう。だが、本質的でないことに対して厳しすぎるのもまた、子供から自由度を奪ってしまうことになる。甘すぎるのも厳しすぎるのもダメだ。… 非常に難しいことを言っているようだが、その通りで非常に難しい。
ただひとつの救いは、大概の失敗は挽回が可能だということだ。自らの取り組みが間違っていたなと思えば、心静かに反省して、やり直せばよい。私自身の失敗、そしてそこからのリカバリーについても、是非書きたいと思い続けている話がひとつあるが、今はまだまとまりがつかない。近い将来にこのエッセィのテーマとして取り上げたいと思う。(2012年6月25日)