入試対策か内申対策か①

松谷です。

年末ですので、なんとなく独り言を。

一点刻みの知識偏重の試験をやめようとということで、

思考力や表現力を見る意味で記述式の導入が検討されたり、

主体性を見るという意味でAO入試や面接の導入が検討されたり、

入試が何回か受けれるように検討されたりしています。

 

さらに、普段の内申点つまり高校の成績を重視すべきという流れもあるようです。普段の学校での活動をeポートフォリオとかいうので記録しておいて入試の資料にする?感じでしょうか。

 

まあ、全体としてアメリカの入試を模倣しようとしている感じですね。

 

さて、普段の内申点つまり高校の成績を重視するということがどういうことなのかについて少し考えてみたいと思います。

 

1発の入試で測るのではなく普段の実力を見ることで人となりがより見えてくるというスタンスですね。

 

高校の成績というのは、つまり定期テストの点と提出物や授業態度ですね。

 

まず、提出物などについては課題が出されたときに期日通りやれるかということで、ある程度勤勉性、計画性の指標になるだろうとは思います。

 

これは実際は単純学力よりは社会で生きる力につながっていく可能性もありますから、僕としてはそれなりに意味があるだろうと思います。学力だけ高くて試験だけできる人でも、そういう基本的なことができない場合、会社で働いたりすることができませんし、フリーで仕事するにしてもどこかで信頼をなくしてしまうと思われます。

 

もちろん出すことだけが目的となって、直前に解答を全部うつして、うまいこと一部わざと間違ったようにして写したことをばれないようにするのに力を注ぐ生徒をたくさん見てきたので限界はありますが。

あと、忘れ物が多い生徒にとってもなかなか難しいかもしれません。僕も忘れ物が多く出し忘れがあったと思います。

ただ、結局そういう人間は社会生活でも苦しむので、厳しさをある程度感じつつ、それを防ぐ自分なりの方法を見つけるための訓練と考えれば意味があるような気がします。

 

 

授業態度についてはどうでしょうか。

これは測りがたいですね。手を挙げた回数みたいな指標を授業態度の評価の指標にしたとしたら、よくわからないけど手を挙げたらいいという意味不明な論理になり、授業が崩壊する気もします。そんなこともあり、結局授業態度というのは、小テストとか提出物とかそういうのをひっくるめた評価になりがちなのかもしれません。

ただ、もし外国を模倣するならば、確かに授業に参加していない人は評価がされないようです。そして、授業に参加していないというのは、だまって聞いているだけの人も参加していないことになります。つまり、発言しないものは低評価ということです。つまり、これは挙手しない人を評価しないこと同義ですね。

ただ、従来の日本の授業形式のまま、挙手を評価するとなると難しいと思います。まず、人数が多すぎるというのと、あとは多くの人が発言することが基本であるディスカッション形式ではありませんのでね。

そんな状況では、あたかも先生のご機嫌とりみたいな印象を与えてしまう面もあるのかもしれません。

もちろん、ICT活用で先生の発問などに対してそれぞれの人がタブレット上で意見を述べて全員が一気に見れるような工夫などもできるでしょうし、そうすることで、授業への参加が容易になっていくかもしれません。

 

そういえば、なんとなくできる人の答案みたいなと思ったことありますね。全員のテストの答案データが保存してあって全員がいつでも見れる状況であれば、向上の目安にもなりますし、サボれないなという危機意識にも繋がる可能性はありますね。プライバシーがない感じですので、嫌がる可能性もありますが。

 

 

次に、本題である定期テストにより評価すること、または、定期テストを頑張ることについての是非?を考えてみたいと思います。

 

長いので、また次回。