「あー、そうゆうことか!」に含まれる罠

松谷です。

「あー、そうゆうことか!」

 

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生徒からこの言葉を聞けるのはいいですね。

 

そして、そのときの顔を見れるのは幸せなものです。何やらつきものが落ちたような顔をしていますので、自分がいいことをしたような気がします。

 

稲荷塾で教え始めて3ヶ月くらいたって、改めてそのように感じているところではあります。

 

 

幸せですねぇ。

 

 

 

で、終わってもいいのですが、今回はもう一歩突っ込んで考えてみたいと思います。

 

 

「あー、そうゆうことか!」

 

には、「あー」が含まれます。

 

 

これは、一種の逆接を内包する表現です。

 

 

「(僕はいままでこのように捉えていたけれど、)あー(それは間違いであった)」という意味なわけです。

 

即ち、授業に入る前の状態で、その(僕はいままでこのように捉えていたけれど、)という前提が、既に作られていたのでないならば、

 

自分の、授業や教え方により、その誤解が一度作り上げられたということになります。

 

即ち、一度教えることに、失敗をしているわけです。

 

そら、何度も教える経験をしていれば、わからないと言われれば、いろいろ言い方を変えたりしながら理解させてあげることは、ほぼ100パーセントできるとは思います。(ある程度の知識と理解、なんとかしてあげたいという心がある方ならば。)

 

しかし、そんなに何回も言い方を変えるチャンスはないことが実は多いのです。時間がないケースもあれば、何回も言い方を変えることで混乱を招く場合もなきにしもあらずです。

 

そうすると、第一声の教え方の時点で、まずできるだけ最適化した教え方を適用して教えてあげなければならないのです。

 

そして、できるだけ少ない回数で理解に達させてあげなければ、それは現在の教師のあり方から言えば失敗なんだと思います。

 

そうなるとこれはなかなか難しい技術となり、かなりの経験を積まなければならないんだと思います。

(普通の個別指導塾などの大学生の講師がこの域に達することはまずないので、これをあきらめることで、個々に対してその都度対応していくというスタンスをとります。教える対象が単数であれば、時間はかかるもののそれでいい側面はあります。教える対象がふくらみすぎる映像授業などは、言い換えがきかないので、言葉にはかなりこだわらなければなりません。稲荷塾のような少人数制の集団指導形態ならば、言葉にかなりこだわりつつも、できるだけ理解度に応じた個別対応的教え方でも補助していくことになります。)

 

それを考えるとまだまだ精進をし続けなければと思うわけですね。

(ただ、自分だけでその道をとるとあまりにも遠回りなので、最適な先人である稲荷先生の知識を吸収することにまずは徹しているわけですが。それの中に僕の経験を混ぜていく感じですね。)

 

最近中学生に数1aなどを教えていて、そんなことを感じましたね。

 

ある生徒に、「よくわからないけど、わかったことにしとく」と言われてしまったことがあり、正直悔しかったですが、なんとかその子の思考を読み取り、別の教え方を提示できました。

 

また、ある生徒には、何回も繰り返して簡単すぎるように思われる内容の説明をし続けていたのですが、もーっと基礎の部分で大きな勘違いがあったようで、全然理解に至れませんでした。でもそのツボが押せたところ、ほんとに憑き物が落ちたような顔になってました。

 

これらの経験を通じて得た感想は、「臨機応変に対応して、その子にあった教え方を提示できて、理解を得られたし、満足してもらえた!すごい嬉しい!」ではまったくありません。

 

 

僕の感想は、「最初の説明のなかで、その生徒にとって核心となる思考や勘違いしやすいポイントに触れることができず悔しい。。」でした。

 

まぁ、一つ一つ精進ですなぁ。