公立校の内申で子どもはどうなる

松谷です。

内申点について、僕は最近少し考え方が変わりつつあるので、述べてみたいと思います。

ちなみに、以前の(高校生くらいのときの)僕の内申に対する考え方は、過激ですが、

定期テスト前に覚えてテストに吐き出して点数とるだけで、それで1週間もしたら、ほとんど忘れてなんも残らんことの方が多い。労力がもったいなすぎる。学校の点いいけど、模試とか悪い人は何のために勉強してるんだろう。態度?知ったことか、つまらん授業いらん授業と思ったから寝るんじゃ。伝える気ゼロな授業するな。

といったものでした。若いですね。。

では、ここから本題。

 

僕は京都の私立中学校高校で育ったので、京都の公立中学高校のことについては、まだ、完全に熟知しているわけでは、ありません。また、高校は、あまりにも学校によってばらばらで、指定校推薦を狙うか一般受験をするかによってもあまりにも状況が変わってきます。

ということで、東京で、個別指導塾に勤務していたときに、いっぱい見た、東京の公立中学と高校受験のことについて述べたいと思います。

まず、制度として、

東京の公立中学は、英数国理社の5科目と、技術家庭、体育、音楽、美術の4科目の合計9科目について、毎学期、試験があります。その点数と、テスト前までの提出物と、授業態度を合わせて内申がついていきます。

高校入試は、私立と公立があります。上位私立(開成など一部を除く)は、一般学力試験で、英数国の3科目のみの勝負、中下位私立は一般試験も一応ありますが、推薦の割合が、半分を超えます。一方、公立(都立)高校を受ける場合は、一般学力試験で、英数国理社で、700点分、三年生の内申点を、9教科を300点分として、合計で1000点分として、争います。内申点においては、副教科の方が一科目あたり、2倍の重み付けがなされています。

 

そして、すごく多いパターンが、内申点だけで、私立の推薦を押さえ(ある内申点を超えればまず落ちない)、公立(都立)の受験(内申が3割)をするという形です。

つまり、内申点が、受験における命運を握りまくっているということです。

たとえば、音楽とか美術なんかの内申1の差は当日の入試点の10点近くに換算され、提出物を、出していない生徒は、100点とっても5はつきません。

これが、子供にとっていいかどうかなのですが、今になって思うのは、条件が整えば悪くない面もあるということです。

 

この内申評価は、大学入試の一般入試の突破能力とかには、はっきりいってあまり関係しないのですが、社会人になったときの仕事の出来不出来にかなり相関があるのではないかという風に思ったからです。

まずは、提出物などの自己管理ができてるか、苦手なもの嫌なものでも、いろんな手段を使って克服していけるか、スケジュールを立てて勉強計画を、立てられるか、欲しい合計点を見定めて、不足をどこで補うか(得意を伸ばすのか、苦手を埋めるか、どれを捨てるかなど)を考える、など、大学入試というより、社会人としての基礎力に関係している気がします。

さらに、もっとも社会人として関係するのは、評価する上司(担任の先生)が、いるということです。社会は、案外、結果や点数だけで、まわっているわけでは、ありません。やはり、上司に正当に評価されないと、なかなか難しいです。なので、もちろん、客観的な点数は努力して獲得しつつ、上司(担任の先生)が、求めているものは何かということを察知して、アジャストしていく(場合によってはアピールする)能力は、すごく大事なんではないかと思います。人に好かれる愛嬌があるということも、大事になってきます。さらに、どうしてもアジャストしきれなけば、私立の一般入試にかける、模試の点数を獲得してそれを持って相談会にいく、という手も残されております。

 

ただし、上記の良い面が発揮されるのは、ある条件が整えばです。それは、上司が、できる限り選り好みをせずきちっと生徒のいろんな面をみてあげて、目を曇らさないこと。完全には無理なものの公平さをできるだけ期すこと。ある程度の基準を事前に伝えること。学校の課題などだけで、生徒のすべての時間が埋まるようにしないこと。進路選択のタイミングで、無意味な規制を課さないことです。

 

実際は、これがなかなか難しく、先生の資質によっては、ただ、顔色をうかがうみたいな感じになってしまう生徒もでてくるかもしれません。そうなったら、なかなか悲しい結末ですね。

 

僕が、一緒に仕事をしていた都立の上位校出身の講師の方は、なかなかきびきびとしていて、実直な感じがしましたし、中学生で、内申がオール5に近い子はなかなかエネルギーがあったので、内申制度も一定の意義があるのだなと思うにいたりました。

まぁ、まだ変わるかもしれませんが。。。