夢と理想

私の初めの本は「小さな数学塾のヒミツ」というタイトルで、稲荷塾のカリキュラムについての説明も少し載せていますが、基本的にエッセーです。

これは結構面白く、私自身、何かに迷ったりしたときに読み返すようにしています。

今回はその中の「夢と理想」という章を紹介したいと思います。

 

将棋の道を辞めることになった頃から3、4年の間、私の考え方に多大な影響を与えてくれた人がいた。その方のアドバイスは多方面に渡ったが、特に人生のプランに関するものは印象深く、今もそれに従っていると言うことができる。これを簡単にまとめると、次のようになる。「まず、10代で人生観、世界観、歴史観、… といった根源的な問題を掘り下げ、そこでの気付き、悟りというものが必要だ。次に23才までに自分の特性を発見すべきだ。それができれば、30才までは、自分に合わないことを含め、思いつく限りあらゆることに挑戦してみることだ。30才からはいよいよ実践期に入る。自分が定めた方向に全力を集中するべきときだ。40才からは、それを具体的な形にしなければならない。50才からは、ある程度の成功を収め、人に見せられる実績を持たなければならない。60才からは指導者になるべきだ」何となく孔子の教えに似ている気もするが、それはどうでもよい。とにかく、このような考え方、特に10年単位で計画を立てるというようなスケールの大きさが気に入った。自分の特性を発見するところが23才になっているが、他は10才毎なのに何故ここだけ中途半端な数になっているのかと多少疑問に感じたが、まあその頃に大学を卒業するわけだし、20才と言われるより、少し余裕があっていいんじゃないかとも思った。
さて、私は上のガイドラインに従ってやって来たと書いたが、実際のところを話すことにしよう。… ことの始まりは、私の両親が小学校の教員をしていたことだ。親戚関係にも学校の先生が多く、否でもその世界が目に飛び込んで来た。だから今の仕事を選んだのかと言うと、実は全く逆だ。小さい頃から教師という職業を身近に見て来ての率直な感想は「魅力のない仕事」という一言に尽きる。そこにいる人達は概して、視野が狭く、柔軟性に欠け、何かに挑戦するという気質が欠如し、… 夢多き私には、まるで刺激のない生活をしているように見えた。当然その方面は、針路の選択肢から除外していたものだから、23才のタイムリミットが迫る頃、私は大いに焦らされることになった。自分に向いていない事の中から、生涯、情熱を傾けることのできる道を探そうとしていたからだ。しかし、まごつきはしたが、結局私は自分が根っからの教師であることを悟り、その方向であれこれ理想を描き、計画を練り始めた。
高校の教師になり、将棋部の顧問をするのもいいなと思った。部を率いて、全国大会で優勝するなんてことは、とても心引かれる事のように思えた。だが、残念なことに教職課程を履修していなかったので、それを今更 … と考えると、大変さの方が目に付いて、この案は没にすることにした。人が行動するか否かを決定するとき、3つの判断基準に照らし合せて考えることになるが、一つは「快、不快」、次は「損、得」、そして最後が「善、悪」だ。たとえ不快であっても、損得を計算すれば、やらなければならないこともあるだろうし、仮に損をすると分かっていたとしても、それが善だと判断すれば、断行しなければならないこともあるだろう。そういう意味で、一つ目より二つ目、二つ目より三つ目がより高い基準だと言えるが、「善、悪」とは、ある目的に対して、それに沿っているか、反しているかを問う内容だ。それに対して「快、不快」とは、ある状態にあるかどうかを判断する言葉だ。そのように考えて行くと、「将棋部の顧問に{なる}」というのは、どちらかと言うと「快、不快」を基準とした目標設定だといえるだろう。つまり、そんなに高い理想じゃないということで、もっと本心に訴えかけるような理想、一生を通して追い続けることのできるような理想があるに違いないと思ったことも、これを捨てることにした理由の一つだ。
若い頃は見えている世界が狭い。だけれども純粋であり、その直観により、結構本質的なことを見抜いてしまうことがある。私の場合も、20台前半に考えたことが、今の生き方に深く影響を与えていることを思うと、それなりに真剣だったんだなと評価したい気持ちになる。そのときに出した結論を書いてみよう。まず、最初に決めたことは、できるだけ大きく考えるということだった。自分の力量はこのぐらいだから … というような、自らの可能性に制限を加えるような発想はやめておくことにした。たとえそれが夢物語のような内容であったとしても、挑戦することに情熱を感じることができれば、それでいいと思った。そして行き着いた理想は、「同じ教育者になるんだったら、国の根幹を作るような仕事がしたい」ということだった。しかし、いくら何でも日本は大き過ぎる。もっと小さな発展途上国がいいなと思った。南米の暖かい国に心が惹かれた。夢はどんどん膨らんだが、そこから逆算して計画を立てた。… 30才で教育の現場に就く。40才で自分の塾を立ち上げる。50才からは、それを発展させて、物が言える基盤を作る。60才からは勝負だ。
これまでのところ、私はかなりの精度で上の計画を実行して来た。大学を出た後は、将来の夢とはできるだけ無関係な仕事をしようと思い、そのようにした。28才で失業し、京都に戻って来て、食べるためだけの仕事を1年した後、{29才}で小さな塾に勤めることにした。その後、少しずつ大きな塾に勤務先を変えながら、技術を修得し、34才で予備校講師になった。その頃から部屋を借りて、個別指導を行ったりしながら準備を進め、家を買って塾をスタートしたのが{ 37才}。その後、塾は順調に成長したが、39才のときに3週間の休みをとってブラジルからパラグアイを旅行してまわった。25cmほどのピラニアを釣って、家内に料理してもらって食べたこと、豪雨の中、現地の子供達の中に入ってサッカーをしたこと、息子とヘラクレスオオカブトのメスを捕まえたこと … 等、強烈に記憶に残る体験だったが、何よりも移住の可能性を多く発見することができたことが、大きな成果だった。飛行場からそれ程遠くない便利な土地で、1ヘクタール(100m×100m)が50万円ぐらいだったことも魅力的だった。200万円もあれば立派な家が建つし、目と目が合って親指を突き出せばもう友達という、そこに住む人たちの陽気な性格も気に入った。子供が5才と2才でまだ小さかったので、来るなら今だと興奮気味で帰国した。しかしその直後、家内が病気になったことで、日本で頑張るしかないと腹をくくることになった。そして今年{ 50才}になる。前々章の「画期的カリキュラム」のところで書いたように、今では「ひょっとしたら日本の教育を根本的に変えることができるかも知れない」と考えている。(2009年2月11日)

 

この続きを書いてみようと思います。

2011年3月11日、私が52才のときに今の建物に移りました。それまでは自宅の1階が塾だったのですが、そのときから生活と仕事を完全に切り離すことにしたということです。

ちなみにそのときの借金が7000万円でした。

その後、2014年1月1日に「頭のいい子には中学受験をさせるな」が出ました。

2015年7月30日に「稲荷の独習数学」が出ました。

そして今、59才です。

 

いや~ぁ、

 

60才からは指導者になるんですって!

 

やっぱり日本の教育を変えるという夢は捨てることができません。

しかし、本を出したり、ブログで訴えたりしているぐらいでは、事実上何の影響力もないですよね?

 

だから、

 

今考えているのは、稲荷塾の全国展開です。

正直言って、今すぐ動くことはできません。

もっと稲荷塾自体がしっかりしないといけません。

しかし、「完璧になってから」などと考えていては永遠に動けないとも思います。

 

頑張ります!