フィンランドの教育はなぜ世界一なのか

これはフィンランド人と結婚しフィンランドで大学の先生をしている日本人が書いた本です。

フィンランドの教育

簡単に読める本ではありません。

読んでは考え、読んでは考えしながら進めています。

それから昨日は、私の友人で日常的にフィンランド人と一緒に仕事をしている人にもどのように感じるかを聞いてみました。その友人曰く、どこが世界一? と疑問を表明しつつ「人生を楽しめる、人生って楽しいものだと思えるということについては非常に優れていて、それは教育の賜物だと思う」と言っていました。まさしくそこが重要なんじゃないでしょうか?!

ただ、まず言えることはフィンランドは文化も歴史も、それから国も規模も日本とは大きく異なるので、彼らの考え方をそのまま輸入することはできないということです。

それでもフィンランドの教育はあまりにも魅力的で、何とか取り入れることはできないものかと考えてしまいます。

 

本の帯にあるように「テストも偏差値も受験もない、それで勉強ができるって、どういうこと?」と、フィンランドの教育の話を聞いた人は思うでしょう。

もちろんやり方が全く違うのですが、それは考え方が違い、価値観が違うからです。

だからうわべの方法だけを真似しても意味がありません。

しかし、「小学校は午前中で終わりにした方がよい」と長年私が主張し続けてきたことを実際に行っている国があったことに驚きを感じますし、しかもそれはフィンランドだけでなくヨーロッパの国々では結構メジャーな方法だったことを知ってみれば、せめてこの形ぐらいは実現できないものかと思ってしまいます。

 

フィンランドでは1990年代に深刻な不況に陥り、そこから今日のシステムを作り上げたそうですが、危機に陥ったときに動けたということがすごいことです。一つには人口が550万人と少ないこともその理由だと思います。大阪だけでも850万人ぐらいのはずなので、それより少ないのです。

日本では一つには大きすぎるということもありますし、誰かが何かを提案したとしても、反対する人や反対しなくても変化に抵抗する人が出てきてなかなか動けないのです。動くとしたら今回の入試改革のようにトップダウンのものが多いです。そしてその内容はあまりにもお粗末と言うしかありません。本来、ノウハウを蓄積させ進化させるのは現場であり、そこから改革の提案が出て来ないといけないと思います。しかしそれが出てきにくい体質になっていて、出てきたとしても全体としては動けないとなっているのです。

道州制なんて絶対にいいと思いますが、実現できないでしょうねぇ … たとえば京都と滋賀が一緒になったらいいなどと言えば、滋賀の人が「京都と滋賀では文化が違うのに京都と一緒になったら京都主導で動いてしまう」と言って反発し、じゃあもっと細分化すればよいと言えば、単独の県ではやっていけないようなところがそれは困ると言う、という具合に。

それと、これは言ってはいけないことなのかも知れませんが、成績の悪い人が先生になっているのも問題で、だから、そこから斬新なアイディアが出て来ないのです。特に小学校と中学校では。センターの成績で区分しても模試の偏差値で区分しても、どこにも行けないような成績の人が教育大学に行くようになっています。これでは改革は難しいし、このような教育現場に優秀な先生を入れたとしても全体を変えていくことができる力にはなりにくく、むしろつぶされてしまう環境になっているのです。

でも、このままでは座して死を待つのみとはならないかと心配します。

 

まあ、もちろん心配し過ぎてもよくないので、稲荷塾は学校教育の外からですが「世界的で歴史的な貢献をする人材を育成しよう」という目標を掲げて頑張っていきたいです。

今は「独習中学数学」と「演習の第二段階」の2冊を完成させることに忙しく、新しいことに手を付ける余裕がありませんが、来年度からは本格的に稲荷塾の全国展開の方法を模索したいと考えています。