もしも高校4年生があったら、英語を話せるようになるか

松谷です。

今たまたま家に1人でいる時間がありますので、ここぞとばかり、自分のために時間を使っています。

ということで、本を読んでみました。

今回のは

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これです。

「もしも高校4年生があったら、英語を話せるようになるか」

というキャッチーなタイトルの本です。「もしなる」が愛称だそうです。

タイトルの通り、日本の今までの英語教育を憂う本であり、今こそ真っ当な英語を使える道を日本全体に特に日本の子供たちに示さなければならない!!というような趣旨の小説です。かなり引き込まれるストーリーの中で英語教育を語っているところが目新しいです。稲荷塾の本棚に置いておきますね。

主人公は中学の英語の先生で従来の学校英語が得意で読み書きはできるから中学の英語の先生になったものの、話すことには自信が持てず、今後英語を話すことを教えなければならなくなることに不安を抱いている20代中盤くらいの女性です。

英会話教室、スピーキング系の参考書、オンライン英会話といろんなものに手を出してがんばるもののうまくいかずというのを繰り返していたところ、急行電車が線路内への人の立ち入りのせいでたまたま止まった各停の駅から見えた「吉原龍子英会話教室」という看板とそこについていた宣伝文句(もし高校四年生があったら、英語を話せるようになるか)に惹かれ門を叩くことになります。そこにいた個性的な女性学院長と若手男性日本人講師に自分の持っていたあらゆる常識をぶった切られながら・・・。という話です。

 

なぜ英語が話せないかの理由説明とか、英語学習法の提示部分とかの内容もよかったんですが、何より主人公や学院長などの英語教育への熱い思いがドバドバっと流れてきました。

子供たちはいったん方向がわかって道がわかったなら走りだす力や気持ちは絶対に持っている。でも、具体的な道標を示さない限りそれは成し遂げられない。今はその最初の方向がずれていて、それはこの何十年の日本の英語教育の結果が示している。だったらその正しい道を照らしてあげなきゃいけないんじゃないの?!それが先生たるものの努めじゃないの?!

というような熱い話がいっぱいありました。

 

僕自身は数学講師ではありますが、講師としての気の持ち方とかそういったところにすごく響いたような気がしますし、大事にしたい気持ちだなと思いました。

 

 

さて、もし高校4年生があったら、英語を話せるようになるか?もちろんこの書籍の言いたいことは今のままでは高校4年生があったとしても英語は話せるようにならない。今の学校教育の延長線上には英語が話せるというゴールは達成されない。という主張なわけでした。

特に、真面目に勉強する特性があり、学校の英語がすごく得意だった層(偏差値65以上みたいな)が話せるようにならないことによる彼らの挫折感はすごいものだし、日本におけるその損失といったら計り知れないというようなことを言っていましたね。勉強しない層はとりあえずおいておいたとしてね。

僕もそのようなことを感じた一人かもしれませんね。学校の英語?入試の英語?とかでいったらすごく得意でしたから、自分が話せないというのは何か変なのかなもしれないと思ったかもしれません。正直あまり覚えていませんが。時代背景や僕個人の背景もあって話す機会がなかったしそんなに話したい!とも思ってたわけではないので、そんなもんなのかなとなんとなく納得してしまっていたような気がします。

そんなこんなで大学入学してから英語への興味がいったんゼロになったのですが、社会人になってTOEICに興味をもち2年くらい学習して勢いで990をとったあとに、ふと思うように英語を話せていない自分、いやそもそも話す機会を全く持っていない自分に気づき、初めて変な違和感を感じ出しました。

それで稲荷塾に来て、たまたま幸運に恵まれてカーメリアのレッスンを1年くらい受けさせてもらってスピーキングというものにこわごわと乗り出して結果的には余裕で英検1級を取れたことは少し自信になりました。

それ以来基本的に「英語を話せますか?」と聞かれたら「話せます」と答えています。「少し」という表現をつけることは意識的にやめました。日本人のペラペラ信仰具合を考えると宇多田ヒカルくらい話せて初めて話せる、それ以外は全員話せないと思っている節があるのですが、そんなに白か黒かみたいな話なわけないんですね。いきなり0が100になるなんてことはありえるわけがなくて中間層があるに決まっているわけです。ですのでその存在を認めるためにも、僕くらいのスピーキングでも「話せます」ということは大事なのかなと。

ただ、それでも自分のスピーキングにまだ大いに異物感違和感を感じている面もあり、自信という意味ではまだそんなにありませんからスピーキングについて何か指導法を語るみたいなのは避けています。

でも、思ったのは大人がそんなこっちゃいかんなと。そんなことではそんな大人に指導される子どもたまったもんではないですしね。自分自身がネイティブのように英語を操れる英語講師になることはすぐできないと思いますが、正しい方向性をガイドできる存在にはならないとだなと。ガイドとちょっとした後押しと適切なトレーニング素材があればそこからトレーニングするのは子ども自身ですしね。自分自身もトレーニングしつつ見本となりつつ、それでいて正しくガイドできる知識を持つと。今はその知識がいいものも悪いものも氾濫しすぎていますからね。もし、英語を指導する気があるならそういう気概が必要ですね。

 

でも、少し明るいニュースをいうと、実際の学校現場はこの本の中身ほどは停滞していないような気がします。もっと、スピーキングの授業が爆発的に増えている印象です。それは灘や高槻みたいな中高もそうですし、私立の小学校についてもそうですね。

 

だから実際には、一部の熱い教師たちにより現場は変わり始めているんだと思います。少なくとも僕が学生のときとは雲泥の差です。特にここ3年くらいで顕著に変わってきているような気がします。なので過去の学校教育のイメージをもとに語るのは何か違うような気もしますね。

 

もし、すべての学校の英語教育が家での訓練のさせ方も含めてうまくいくんだとするとそうすると塾として何か支援する意味はどんどんなくなっていくのかもしれませんね。それはまた幸せなことなんだろうと思います。

 

なんだか良くわからなくなってきましたが、講師の在り方とかを考えさせられました。

ご興味ある人は読んでみてください。

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