一方向だけで見てると見えないもの

松谷です。

先日、元学校の先生だった方と話していて、気になって聞いたんですね。

「洛南小などの私立小は生徒の学力幅はものすごいと思いますけど、

そのような子たちは、全員一律で中学に上がれるようですが、その後うまく泳いでいけるものなんでしょうか??」

 

「きみたちは受験という一方向でしか生徒を見てないからそういうような見方をしてしまうんじゃないか?」

 

その方は、学力の幅がものすごいことを完全に承知のうえで、上に上がってもokに決まってるってスタンスでした。生徒には個性があって、様々な方面に才能があり、学校の勉強の出来不出来なんていうのはほんの一側面にしか過ぎない。と考えていらっしゃるということだと思います。

 

さらにいうと、学校としては、そんないろいろな個性があるのが当然でそういう子たちを許容できる度量の広さがあるという自負だと思うんですね。

 

実際は、まだまだ小学校からの内部進学組は融合したてで、模索はあるんでしょうし、本当に上手くいくのかはわかりませんが、先生としてそういう気持ちを持ってる先生がいるというのがいいなと感じました。(話を聞いた方はもう先生ではないですが)

 

 

 

ただ、塾としても受験という一方向だけで見るようなことはできるだけしたくないなという思いも当然持っています。

 

 

僕は勉強すること自体は楽しいことだと思いますし、好きですし、それを通して生徒に関わりたい、何かを提供したいと思ってこの仕事をしていますが、それでも出来る範囲で勉強以外の要素も大事にしたいと感じます。

 

だから、稲荷塾には、小学生部で連絡帳があったり、A会話のクラスがあったり、土曜日などで他愛もない話をしたり。授業中や授業後の質問やテスト直しを通したコミュニケーションなども大事なのかなと。

 

生徒さんや保護者さんが塾という機能に求めているのは勉強特化なのかもしれませんし、その利益だけをある意味得たいのかもしれませんが、案外、人間対人間の場合はそう単純にはいかないのかなと。お互い信頼しつつ勉強以外も多少含めながら共に歩んでいく感じがないとなかなか上手くいかないなと。(機械学習ならば、まどろっこしいことがいらないのは確かですけどね。)

 

もちろん、生徒さん保護者さん側は、ある程度自分(の子ども)に適切に刺激を受けられる学習環境を求めて塾を選ばれていますし、選んでもらえるように、我々が対応できる範囲の生徒の利益を最大化するために入塾テストをしたりして内部環境を整えたりしているのは事実です。

 

それはまあ、一方向中心に見ていて度量が狭いんじゃないの?と言われればそうなんですがね。。。