勉強を勉強と思うかどうか?の線引き

松谷です。

勉強を勉強と思うかどうかは、それを大変なものだと思いながらやっているか、嫌々やってるか、無理してやってるかどうかにかかわってくるのかもしれませんね。

 

チューターの林くんに中高のときどれくらい勉強していたの?

 

と聞いたら、受験期(高2の後半くらいから?ら)を除くと、定期テスト前以外は実質ほとんどやっていなかったと言っていました。(学校のレベルが高すぎるからそれだけでも十分な可能性はありますので、参考にできるかはわかりませんが。)

 

彼の学生時代とはレベルが違いましたが、僕でも、受験期に入る前に、勉強をすごくしてたか?と聞かれたら別にそんなにやってなかったというのが正直な印象です。(中学受験経験者に聞けば、中学受験の方が大学受験より何倍も勉強した気がするという人が結構いると思います。)

 

ただ、林くんにしても僕にしても、稲荷塾は行っていたわけですし、僕は英語も個人塾で習っていたりしました。

 

でも、少なくとも、僕のなかでは、それは、勉強にカウントされていませんでした。

 

なんか楽しかったですし、単純にわからないことをわかったり、新しい物事を教えてもらえるという感じで、普通に面白い習い事の一種という感じでした。

 

多分、学校でテニスやっている人にとってのテニススクールみたいな感じでしょうか。

 

僕の中で、勉強というイメージは、なんか机に向かって、少し大変だなというイメージを持ちながら、気合いをいれてやるものというイメージがあるので、

 

それは、定期テスト前の社会の勉強や、受験期の理科の無機化学の詰め込みの勉強や、センター試験の国語や数学の時間をはかった演習などを、大変だけどぐいっとやるイメージのときに、勉強してるなぁという感覚を持っていました。

 

つまり、低学年のうちは、勉強を勉強と思わないような、もっと自然な勉強をできたらいいのかもしれませんね。

 

まあ、理想論といえば理想論かもしれません。

 

高校の高学年になったら、日本のシステムに受験というものがある以上、まさに勉強っぽい勉強をしなければならないのも確かですし、そうなったときに、逃げないというのも大切なことです。

 

ただ、低学年のうちからは、あんまり勉強しろ勉強しろって、怒られながらやるもんではない気はしますし、自然にやって欲しいなと思います。

 

稲荷塾は、反転授業になって、予習してこないと授業参加するのに値しないような感じになってきてますので、昔の稲荷塾より、はっきりと勉強をするのが当たり前の雰囲気ができてきている気はします。

 

それはすごくよいことだと思います。

 

そのうえで、その予習が、嫌々なものではなく、理解したい、理解できると楽しい、なんていうような自然な感情から、なされたらいいなと思うんですね。

 

自分の子どもを見てて、思うんですが、物事を知りたいとか理解したいというのは、人間の本能だと思うんですね。

 

本を読んでくれとか、動物カルタをしてくれとか、すごくせがんできますからね。たとえこちらが眠くても。。