稲荷塾は何を目指すか?
松谷君が塾のことを書いていましたねぇ。
私も少し振り返ってみようと思います。
昔、私が関西進学セミナーという茨木市の塾に勤めていたときに初田君という生徒がいました。
茨木高校の生徒が大半だった中で洛星の子が混じっていたわけです。しかも進度は茨木高校に合わせて高1で数ⅠAをしていたので、彼からすると学校より1年遅れの進度でした。
非常に稀な選択だと思います。
おそらく洛星中学に入ってからずっとさぼっていて落ちこぼれてしまったので、やり直そうとしていたんだと思います。
それから1年が過ぎて彼が高2になるときに、私は塾の上層部とけんかをして、新設の高槻教室に移動することになりました。
それに彼は付いてきたのです。
つまり私のことを気に入ってくれていたのだと思いますが、そこでドナルド(池田耕太郎)とかと合流して、クラスのムードはとても良かったです。初田君の成績も上がったと思います。特に化学は洛星で1番の成績を取っていました。
ちょうどその1年は、浪人してしまっていた福田、村井、生田の3人を塾内の一室を使ってトレーニングしていた時期で、これが稲荷塾の源流になりました。
まあ、関西進学セミナーからすると塾の実績にもならないし、収益にもならないことをしていたので、塾の上層部との対立はますます激しくなり、遂にその1年で私は退職することになりました。
初田君やドナルドが高3になっていよいよ重要な時期を迎えたときに、彼らを見捨てて行くことになったのです。彼らには悪いことをしたと思っています。
その後初田君は文転し、さらにセンターの成績が良かったので、再び直前で理転し、山口大学の医学部に行きました。かなり変わった経緯ですが、今では「はつたクリニック」の院長ですから、良かったのではないでしょうか。
ドナルドは浪人し、私のところに個別指導に来て、次の年に京大に入りました。そして今はトヨタで水素電池を研究していることは何度か触れました。
これが1996年のことですが、この年の暮れ、松谷君のお母さんから連絡があり、会うことになりました。なんでも初田君の妹君と松谷君のお姉さんが同級生だったとかで、初田君のお母さんから稲荷さんのところに行くようにと強く勧められたそうです。
まだそのときは向日市の私の実家の一室を使って個別指導をしていたのですが、ちょうど1997年春から塾を立ち上げようと準備していたときだったので、そこから来てもらうことになりました。
それで塾の話ですが、当初松谷君はMATとの掛け持ちでした。
松谷君から見ると、MATは大きな塾で実績もあり、友達もたくさん通っているのに、何で俺はこんなぼろ家の怪しい塾に来ないといけないのかと、明らかに不満顔でした。
いつやめると言い出すか分からない雰囲気の中でのスタートでしたが、私としては燃えましたねぇ …。
それが次第になじんで来て、彼が高2のあるときにMATのことを聞いたら、やめたので分からないという返事が返って来て、なぜかすごく嬉しかったです!
まあ、そんなことで、当初はMATや鉄緑会をすごく意識していました。
いつか追い付き追い越すぞ、という感じだったと思います。
しかし、あれから20年が過ぎても全く追い付いていないですねぇ …。
思うに、塾のタイプが違うというか、目標も違うので、実績は永遠に追い付かないと悟ったわけです。
それよりは自分の得意とする分野を持つというか、自分ができることを一生懸命にする、それに情熱を感じ、楽しんでする、… こういったことが重要だと思うようになったのです。
それで今日の形になりました。
さて今年はどんな挑戦をするべきか …。