松谷の現代文勉強におけるパラダイムシフト

松谷です。

今日は、ちょっと変わった話題として、自分の高校生時代の経験のひとつとして、現代文の勉強の変化について述べようと思います。

 

 

ただ、別に僕は現代文の勉強の専門家なわけでもありませんので、勉強法について、述べることはしません。

 

現代文に対する一つの考え方についてだけ僕の経験を通して述べます。

 

稲荷塾に、通っている塾生は理系の生徒が多いと思います。

 

理系の生徒さんの中には、

「国語なんてあいまいな科目、まじ嫌だ!安定しない!運だ!」

って思っている方いらっしゃいませんか??

 

かくいう僕もそのように思っている最たる人でした。

国語の成績は、模試などでも安定しないし、解説読んでも、そうといえばそうだけど、こうも考えられるんじゃないの?

などと思っており、納得のいくところが少なく勉強としてやる必然性を感じていませんでした。

そして、僕が今になって思うのは、かなり慎重に作り込まれた試験や問題だけを、解いてきていない限り、そう思うのも当然だなと思います。

しかし、高3の夏くらいになって、いよいよセンター試験の国語を受けないといけないとなって、現代文の勉強に向かうことになりました。

そして、勉強を始めたまさにその日に、今までの自分の考えが覆されたのです。

 

ある参考書の前書きにのっていた内容に衝撃を受けたからです。

 

その内容は下のようなものでした。

 

センター試験というものは誰でも満点がとれるものであり、あいまいさなんてものは一切存在しない。

 

なぜなら、もし、君が、①が正解の問題で、「②だってこんな理由で答えになりうるんじゃないの?悪問だ!」と思ったとする。それが、もし妥当なことなら、日本中のあらゆる現代文教師がそのように思うであろう。

 

しかし、実際は、センター試験は、試験の次の日には、答えを発表する。

そして、その答えに、もし1ミリでも疑義が挟まる余地があったとすると、すぐに現代文教師側から質問状がきて、センター試験側はその抗議に対応しなければならず、その質問状が妥当なものであった場合は、その問題については、正解を2つともにしたり、最悪の場合は悪問として採点除外することになる。

 

作問者側からすると、上のようなことがもし起こったときの恥ずかしさ情けなさは、想像を絶するものであり、信用問題にもなる。

 

ということで、作問者は、上記のような事態を防ぐために、過剰なまでに理論武装するのである。

 

すなわち、「ある程度の有識者が見たときに」、本文にこれが根拠だというところが必ず見いだせるところにしか、問題を作らないのである。それに加えて作問会議で2、3重のチェックが行われる。このようにすることで、100パーセント正解が正解として保証される問題が出来上がるのである。

 

つまり、僕たちは安心して根拠を探していけばよいのである。そうすれば必ず100点がとれるのである。

 

この考え方を知ったときは、僕としては、衝撃的でした。

 

今まで、正直、作問者や問題のせいにしてきて、現代文という科目に真に向き合うことをしてこず、向き合う必要もない、と判断してきた自分が恥ずかしくなりました。

 

自分が「②もありうるで!」としてきたところは、きちんと文章表現を読んで、根拠を拾っていけば、①の方が正解にふさわしいと確実に判断ができるところだったわけで、僕が言っているのは、浅い読みしかしない人による、まさに「屁理屈」に過ぎないということがわかったからです。

 

もちろん、根拠を、より確率高く拾うためには、文章のルールである、接続詞や指示語のルールを知らなければいけません。

また、語彙もある程度増やしたうえで、その文脈の中で規定される意味について探る訓練もしなければなりません。

文章展開の仕方を知ったうえで、この段落の主張は、前の段落の言い換えになっているとか、対比になっているとかも見極めていかなければなりません。

小説なら、必ず感情の原因となる理由があって、感情が起こり、それが行動に発露されているとか、情景描写が心情を表しているとか、感情の変化がセリフになっているとかも意識しておくべきです。

記述式だった場合は、どこまで、記述に含めるかを下線部の各語句との対応をきちんと捉えて同格表現にしなければならないとか、原因と理由の直接的な関係になっているか確かめなければいけないとかもあります。

 

 

 

しかし、上のような細かいテクニックは、「文章に本当に根拠が埋まっている」ということを信じることができたならば、徐々に身についていくことなのです。間違ったときも何故違ったんだろうと真剣に考えるようになってくるんです。納得できるまで、食い下がるようになるのです。

 

これが、僕の現代文の勉強に関する考え方のパラダイムシフトです。

 

大きな思考の枠組みの変化をパラダイムシフトと言いますが、枠組みが変わると同じものを見ていても、まさに全てが違うものとして見えるようになったのです。

 

もしかしたら、僕にしか当てはまらないことかもしれませんが、きっと似たようなことを考えてる誰かにも当てはまるのではないかと思います。

 

僕は上の考え方を知って少しずつ勉強を始めたところ11月と12月くらいの模試で、200点中190点を二回くらい超えることができ、かなり自信が持てた気がします。

 

しかし、もうひとついっておくと、本番のセンター試験の国語では、それほど、爆発的な点数になりませんでした。確か現代文も一つずつくらい間違ったと思います。

 

今なら理由がわかります。

 

上の考え方は、スキルなんですが、そのスキルは、そのスキルを身につけてから、それを元に新しい文章にあたり、練習を積んでいかないと、完全には武器になりきらないんです。ちょっとしたイレギュラーへの対応力や厳しい制限時間のなかでのスピードが上がりきってこないんです。

 

でも、それでもそのスキル、考え方を知れてよかったと思います。

 

願わくは、高1とか高2とかの皆さんがこの考えをすでにもったうえで、あらゆるテストとか授業とかに臨んでもらえると嬉しいなと思います。現代文は単独で勉強する時間はあまりとれないと思いますので、そういうテストとか普段の学校の授業を、大事にするだけでも全然違うんです。

 

そのようにすれば、スキルが完全に身についた状態で受験に臨めるんではないでしょうか。

 

すべての塾生を応援しています。

 

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